2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位
授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」
授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」
第8回講義(2006年12月5日)
§7 カントの自由かヘーゲルの自由か
問1「カントの超越論的自由をになう「負荷なき自我」が現実に存在するのかどうか」、
問2「それが存在するとしても、それもまた一定の歴史的社会的な産物であり、したがって一定の負荷を持っているのではないか」
問3「もし自我が何らかの負荷を持っているのならば、その負荷を運命として受容することがヘーゲルのいう自由である。」
問4「もしカント的な負荷なき自我が、我々の負荷であるのならば、負荷なき自我という負荷を運命として受容することが、ヘーゲルのいう自由であることになるが、これは自己矛盾しないだろうか。」
このような現実の自我のあり方をめぐる問題とは別に、我々は、自由概念の整合性についての問題を問う必要がある。
問a「カントの自由概念は整合的であるのか」
問b「ヘーゲルの自由概念は整合的であるのか」
カントの格率論は、「格率のアポリア」、言い換えると「意志決定のアポリア」に陥った。それは意志決定の説明を困難にするものであった。したがって、このまままでは、カントの格率論は整合的な概念であるとはいえない。我々は、カント解釈を変えることはできないが、カントにならって提示したテーゼ2を次のように批判し修正したいと考える。
テーゼ2への批判「我々が、意志決定をするときには、その背後に一般的な規則があるとは限らない。」
証明:意志決定は、二通りに分けられるので、それを分けて証明しよう。
(1)意志決定が、不決定の決定である場合。
テーゼ2の証明で、私は次のように述べた。
「我々が、意志決定をするとき、AとBとの選択で、Aを選択するときに、「Aを選択すべきだ」と考えて選択したのではなくて、AとBがまったく同じ条件であるにもかかららず、一方を(いわば心の中でサイコロをふるようにして)偶然的に選択したのだとしよう。このような場合、偶然的な選択の背後には、選択しないことよりどちらにしろ選択した方がよいという判断があるはずである。つまり、「・・・べきだ」という判断である。なぜなら、もしそのような判断がなければ、彼はそもそも選択しなかっただろうからである。我々は何の必要もないところで決断したりはしない。そうすると、このばあいにも、上の(1)と同じように、背後には一般的な法則があることになる。」
確かに、彼が迷うにも関わらずどちらかを選択したとすれば、彼には、「選択しないよりは、どちらであれ選択したほうがよい」という判断があったのだといえる。しかし、不決定の場合の選択は、このような選択に限らない。たとえば、迷い続けて選択しないことも、選択であり、迷った挙句にとりあえず、選択を見送るというのも選択である。
例えば、うどんにするか、そばにするか、食券販売機の前で悩むとき、ひとは、どちらかのスイッチを押すか、どちらも押さないでそこで迷い続けるか、食券をかわずにそこを離れるか、このいずれかの選択をする。確かにこのときに、「どちらも買わないよりは、とにかくどちらかを買ったほうがよい」と考えて、うどんを買うときもあるだろう。しかし、迷っていて、後ろから「早くしてください」とせかされることもある。このとき、私は、ある時間そこで迷い続けること選択したのではない。ただ、迷っていただけなのである。しかし、すぐに食券をかわないで、迷っていたのは、誰に強制されたわけでもないので、私がすぐに買わずにしばらく考えることを選択したのだと、といわれたらその通りである。私は、その瞬間には選択の意識がなくても、事後的に「それをあなたは選択したのです」といわれたら、「そのとおりです」といわざるを得ない。我々は意図しなくても、常に既に何かを選択している。このような選択は、法則に基づいて行っているのではない。
では、何故、意図していなかったにも関わらず、選択したことを認めるのだろうか。それは、私が他のように振舞うことも出来たと考えるからである。
電車の中で考え事をしていて、降りるべき駅を乗り過ごす、ということがある。このときに人は、乗り過ごすことを意図的に選択したのではない。しかし、乗り過ごしたことが、自分の責任であることを認めるだろう。なぜなら、彼は、乗り過ごさないことが出来た、と考えるからである。
食券売り場の前で、うどんとそばのどちらを食べたいか、どちらがカロリーが低いか、どちらが安いか、などさまざまな選択尺度で考えることが出来る。
進学するか、就職するかで悩むことが出来るし、どの業界に就職するかで迷うことが出来るし、田舎に帰るかどうかで悩むことが出来るし、留学するかどうかで悩むことが出来る。現在、自分が決めるべき選択問題をある仕方で設定すれば、他の選択問題の設定は見送られることになる。
一般的に、どのような時点においても、ひとは、非常に多くの行為の選択肢をもつ。しかし、そのときに意図的に行っている行為選択の選択肢は2,3のものに限られている。非常に多数の可能な選択問題の設定のうちのひとつの選択問題設定をおこなっている。
*「ヘーゲルによるカント批判は、選択が外的なものである。つまり、選択が強制されたものである」ということであった。これは、上記の反論とどのように関係するのだろうか。